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「イルカ」 よしもとばなな

「イルカ」 よしもとばなな_e0066369_13225570.jpg「冬の終わりに、悪性のインフルエンザにかかった。そこから全てが始まったし、それがなかったら何もなかったと私は思う。あんなにいやなことで、たまらなくて、ないようがいいようなことだったのに、それが全ての大切なポイントだった。それこそが人生の妙なのだなという気がする。」
冒頭、この文章から物語は始まります。まったく、よしもとばななという人はどうして人の心をゆさぶるような文章をこんなに上手に表現できるのだろう。この数行だけで、読者を物語の世界に引っ張り込むことができるなんて。

この物語は、数年前に30代後半で妊娠・出産したばななさんが、その経験をテーマに書き上げたものです。自身の体験がもとになっているだけあって、かなりリアルで、出産を経験した人でなければ分からないであろういろんな心の動きや研ぎ澄まされた感覚がたくさん表現されています。私には未知の世界だけれど、きっと出産した人にとってはまた感じるものが色々あるのだと思います。

私にとっても、たくさん心に響いてくる言葉がありました。ちょっと長くなりますがどれも素晴らしいことばばかりで、ここまで削るのが精一杯でした。

「ごり押しして手に入れたら、その分のひずみがどこかにかかってくる。厳密に残酷にそれはやってくる。」
「もういるものを、いないことにすることだけは、絶対にできないのだ。絶対に、絶対にだ。」

最初、彼女が好きになった男性は長く一緒にいる女性がいます。この2つの文章はそれに関して登場するものです。ここではその女性から無理に彼を奪うことについて書かれていますが、この言葉自体は普遍的にいろんな場面に言えることではないでしょうか。とても心に残る一文でした。

「私はそのとき、インフルエンザの疲れや五郎のことや父の高齢やなにかを心の奥底でいっぺんに感じていたのだろう。タイミングよく感じていたのだ、きっと。いつもさまよい続けてひとところにいなかった私、それをなによりも好きだった私はそのとき生まれて初めて思ったのだ。『もういやだ、こんな淋しいことは。私の席がある場所から離れるのはもういやだ』というふうに。」
次第に、これまでずっと(精神的に)風来坊のような生活を続けてきた彼女の心に少し変化が生じます。そのときの気持ちがこれ。こう思うときって、やっぱり自分の周りでも内部でも何かが起ころうとしているときなのかな。

「不思議なことに、私の半分はここを出るのが面倒くさいと思っていた。家までの遠い道のりを運転していく体力がないような感じなのだ。そして私のもう半分は猛烈にここにいるのをいやがっていた。そしていやがることからも逃避しようとしていた。渦中にいるとき人は奇妙に鷹揚になるものだが、まさにそれだった。」
この、最後の文章。「渦中にいるとき人は奇妙に鷹揚になる」本当にそうだと思う。ある程度まではジタバタするけど、それを通り越した状況になると、起こっていることをどこか遠くから見ているというか、今しなくてもいいことをしてみたりとか…これを現実逃避といってしまえばそれまでだけど、私にとっては現実逃避は意識的にするものであって、こういう状況で鷹揚になるのとはちょっと違うと思うな・

「『人生の場面が急に変わるのが好きなの。極端なら極端なほど、嬉しいの。』私は言った。『アラスカに行って、翌々日はハワイとかそういうようなこと?』マミちゃんは言った。『そうそう、それで”さっきのは夢だったのかな?”と思うのが好きなの。』私は笑った。」
この感覚、すごく分かります。私が色んなことに興味をもって手を出すのも、世界中を旅したいのもそうかもしれない。ヨガに夢中になったのも、シャバアーサナをして朦朧としている時の「さっきまで動き回っていたのは、あれは本当に自分だったのかな。今ここでぼんやり体を投げ出している自分と同じ存在なのかな」と思う感覚にひかれたのかもしれない。

「相手が自分を好きで好きで仕方ない場合でなかったら、どんなに気に入っている人でも寝てはいけないと思う。自分の体が気の毒だ。毎日意味もなく血液を心臓からどんどん送り出して、毒は肝臓や腎臓でなんとか処理し、胃の中のものを消化しては腸を動かしている、体の随所でうまく体が動くようにやってくれているこびとたち...ってそんなものはいないのはわかっているけれど、便宜上そういうものたちがいるとして、その人たちに悪いではないかと思うのだ。」
今、ヨガをするようになって、自分の体に対して自分で責任をもつということについて真剣に考えるようになって、この一節がびっくりするほどスルスルと心の中に入ってきました。書かれていることは本当に当たり前のことなんだけど、でもそれができない人っていっぱいいる。でも周りが何を言っても、どうにもならない。これって本人が心と体でそう思わないと意味のないことなんだ…。

「まだそんなにお腹が出てきてないのでなんとなく不思議だった。歩いているときの意識もすでに違ってきていた。ひとりで歩いているというよりは、いつでもゆで卵(生卵よりももう少し安心っていう感じだったのだ)を大事に持って歩いている感じだった。そしてあれこれ他のことが考えられないように、脳が買ってに調整されている。全く人間はよくできていると思った。このことだけに集中し、そのためだけに生きろと指令が天から下っている感じだった。」

「(水族館で)全てが青っぽい内装の中で、重いお腹を抱えながら、心がうつろになっていくのを感じた。もはや体が全く言うことをきかないので、ふっと気づくといつでもぼうっとしているのだった。これこそが妊婦の世界だろう。生理で貧血のときと少し似ている。別の世界が自分のわきにぱっくりと口を開けていて、いつでもそこをのぞきこめてしまう、そういう感じだった。別の世界は暗くて、風がごうごう吹いていて、恐ろしい数の無意識の闇とつながっている宇宙空間のような世界だった。それがなんとなく心をうつろにさせるのだった。」

「終わりのないトンネル、見えない頂上への登山、そういうものにとてもよく似た痛さだった。そして私は時間と人生の関係をその痛さの中で悟った。ほんの少しでも先のことを考えると、痛さに耐えられなくなるし、エネルギーが奪われるのである。痛くない時間は痛くないことに安らぎ、痛い時間には痛くない時間を待たないこと、今のことだけしか考えないように集中する。それが全てだった。インフルエンザのときも似たことを感じたのだが、今回はもっとせっぱつまっていたので、ますますそう分かった。先のことを考えても無駄だ、というのはまるでひとつの考え方や哲学のようだが、実はもっと具体的なことなのだと思い知った。」

このあたりの文章は、もう女性の神秘というか、母親になるということの偉大さを見せ付けられたようで、ただため息です。みんなこういう風に思うのだろうか。だとすると、こんな気持ちを経験できるのはまさに女性に生まれた特権ですね。体も気持ちも思い通りにならないなんて、しんどいし怖いに違いない、でもその感覚を体で知っていることと知らないことは、その人の価値観を全く変えてしまうようなすごいできごとなんでしょうね。改めて、私の身の回りの「おかあさん」達を偉大だと思わずにいられません…

「ふと振り返ると、五郎のミニが店の前に停まっているのが見えた。五郎は車から出てドアのところに立っていた。その姿を見たとき、この人はうまくすればずっと縁がある人なんだな、と私は思い、今、いっしょにここにいることを嬉しく思った。きれいに磨かれたガラス越しに、コートを着た彼の姿と白い息が見えて、とてもいい光景だった。店の中はいい匂いがいっぱいでさらにちょうどいい温度で暖かく、お腹の中で赤ちゃんはすくすく育っている。私の手にはおいしいパンがいっぱいやってくる。これが人類の幸福のひとつだと、思わずにはいられなかった。風や光が体の中を通っていくような瞬間だった。」
この文章は、この本の中で私が一番好きな部分です。「幸せ」を文字で表せと言われても、私にはこれ以上の文章はなかなか書けないと思う…。

「明日はどうなるか分からない。誰がどう変わるかわからない。私もあの寺にいた人たちみたいに自分を立て直さなくてはならなくなるかもしれない。命も、誰のものがいつまでここにあるかわからない。今手で触れる人も、もう会えないかもしれない。でも今は、全てがここに調和している。私はここにいる。それは一瞬のことで、また次の瞬間には別のことが起きる。ぎゅっとつかんで持っていることはできない。朝の光がどんなにすてきでも、いつまでも朝でいてくれるわけではない。だからこそ、私は思い出を集めているのだ。もう持ちきれなくて忘れてしまって私の細胞のひとつひとつをそれらが形作るまでにたくさん。」

「あの崖のところから、またもこんなに遠くに来ている。早くてもう追いつけない、誰かこれを記録しておいて、と言いたくなった。でもこの瞬間の連なりは私だけに立体的に記録されるものすごいデータなのだ。体にも細胞にも脳にもハートにも刻まれる恐ろしい量の思い出は、私が死んだらこの世からなくなる。厳密には誰とも共有していない。私は私の、妹は妹の、父は父の、五郎は五郎の、アカネちゃんはアカネちゃんの、全然違うそれぞれの世界がわずかに重なり合っているだけで、膨大なそれぞれの思い出宇宙が日々どんどん膨張していく。ただそれだけでもう、自分が生きていることのすごさを思わずにはいられない。」

「(生と死と)そのふたつは一見悲しみと喜びのように見えるが、実はさほど変わらないものなのだと私は感じていた。あの陣痛の暗黒の、永遠の痛みの中をさまよって、そう思ったのだ。あんなに死の匂いの近くに行ったことはない。つまり赤ちゃんもそのときは同じく暗い世界にいたのだろう。生まれるとやっぱり嬉しいからすぐ忘れてしまうだけで、いつかまたその逆の道をきっちりと通って、人はあちら側の世界にまた戻っていく。生きている間は喜びのほうが好きと思いたい、それが人間のくせだというだけで、同じことなのだ。きっと。久しぶりに出た外はなんでもきれいに見えた。遠い空も、道行く人も、ぴかぴかに磨かれた車たちさえも。ここで、この世界で私はまだしばらくは生きていくのだろうと思った。願わくば、この肉体がこの世にいるあいだ、なるべく多くの愛をいろいろなものに注げますように、そう思った。」

この3つの文章は、どこか別のところにしっかり書き残しておこうと思っています。そしてこれから何度も何度も読み返すと思います。ヨガを始めてから考えるようになったことと深くリンクしているからです。宗教めいているようですが、私にとってはそうではありません。どの宗教を信じるとか、どんな儀式をするとか、それとは関係のない次元のことだからです。私は30代で健康で、両親は60代で幸い今のところ2人とも健在で、でも全てはいつまでもそのままではなく毎日変化していきます。今の自分には、ここまでの内容を自力で考えることも、頭の中で生み出すこともできないけれど、いつか自分なりの考え方が生まれてくるのかもしれません。自分にとって、何が一番大切なのか、何を守り、何を切り捨てていけばいいのか…今の私には壮大すぎるテーマだから、私がおばあちゃんになって何も考えられなくなるまで時間をかけながら付き合っていこう、そう思います。
by cita_cita | 2006-08-11 01:44 | 読書
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