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「スピティの谷へ」 謝孝浩

e0066369_22134312.jpgまず、なんといっても写真が最高です。基本的にはインドのスピティ地方を紹介した紀行文(旅行記というよりは、何度かにわたる滞在の記録)なんですが、かなりの量の写真が収録されています。またこの写真の出来がどれもこれもすばらしいものばかりで、これだけで写真集にしても全然イケると思います。

著者の謝さんは標高6千メートルから、海面下40メートルまで、フィールドを飛び回っているフリーランスライターです。大学時代から探検部に所属し、卒業後は秘境専門の旅行会社に就職し、いわゆる“秘境”といわれるところにはほとんど行ったそう。例えば、南アフリカのスワジランド、マリ、パタゴニアやギアナ高地、リビアとかサウジアラビアなど…。もう、あらゆるところを行き尽くしたとき、心に残っていたのが大学時代に探検部で何度も行ったヒマラヤの山々。それからネパール、ブータン、チベットなど、いわゆるチベット仏教圏を重点的に訪れるようになり、飛行機の機内誌で見た写真がきっかけとなって、このスピティを知ったそうです。その写真は切り立った崖の山肌にへばりつくように建っているゴンパ(チベット仏教の僧院)の写真。スピティ地方にあるダンカール・ゴンパという場所でした。

スピティはインド最北にある標高3200~4200メートルの地方です。国としてはインドになりますが、チベット高原に接しているので文化圏としてはチベットそのものなんです。ダライ・ラマも大きな法要をすることがあります。たとえ隣村であっても4000m以上の峠を1つ越えたり、700m以上の起伏のある谷をまたいだ向こう側にいかなければならなかったりします。また1996年までは外国人が入ることは許されていませんでした。謝さんが初めてこの地を訪れたのは97年、それから何度にもわたり2人のカメラマンと共に同じ場所に通ってこの本ができあがりました。

この本の中にはいくつものエピソードが収められていて、そのそれぞれにスピティで生きる老若男女(高僧の生まれ変わりとして6歳で親元を離れて出家することになった子供から、20歳で亡き父親の後を継いで山の郵便局長になった女性、そしてダライラマとともにチベットからインドに亡命した高僧まで…)の姿が、彼らの日常にふらりと入り込んだ謝さんの視点から生き生きと描かれています。その一人一人の表情が、目が、とてもとても魅力的なのです。このスピティの風景の風景のこれまた美しいこと!チベット特有の信じられないほど青く濃く、そして澄みきった空の色、一面に実った小麦の金色、高地に張り付くような棚田の緑、祭りの日の僧たちのまとった鮮やかな衣装の赤や黄色、そして厳しい冬の雪の白と対照的な家の中の温かいオレンジ色。でもやっぱりこれらの景色にも負けないスピティの人々の顔が最高なのです。

旅行好きの人、チベットに憧れる人はもちろん、それ以外の人も読んでみればきっとスピティという名前を忘れられなくなると思います。まるで何かのおまじないを唱えるみたいに、「スピティ」と聞くだけで温かいような、深く穏やかな呼吸をしたときのようないい気分になれることうけあいです。こんな本が家で布団にもぐりながら読めるなんて、謝さんに感謝しなければ。だって、今の私の体力と根性では、いくらお金をためて休みを取ったって、きっと謝さんが歩いた同じ道のりを歩くのは無理ですから、ね。

スピティについて興味が出たひとはぜひここを覗いてみて!謝さんと2人のカメラマン、丸山さんと三原さんが手がけるスピティのサイトです。
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by cita_cita | 2006-10-19 22:20 | 読書

「ナミイ!八重山のおばあの歌物語」 姜 信子

e0066369_0305731.jpg先日京都シネマに見に行った「ナミイと唄えば」の原作となった本です。作者の姜信子(きょうのぶこ)さんは横浜生まれの作家で映画の中ではナミイの「家来」として紹介されていた方。1986年に「ごく普通の在日韓国人」という作品でノンフィクション朝日ジャーナル賞を受賞されています。(この本も興味があったので、一緒に図書館で借りてきました。これから読もうと思っています)


おおまかな中身は、映画とかぶっているところもあるのですが、映画では描かれていなかった背景や、私が見落としてしまっていた部分もたくさん含まれていて、やっぱり読んでよかったです。これを読み終わって、もう一度映画を見たくなりました。

この本の中で、三線をかき鳴らし、ひとしきり唄い、踊った後ナミイおばあが言う台詞にハッとしてしましました。ひとつは、多分映画では出てこなかった台詞、もうひとつは映画で聞いたときもとても印象的だった台詞です。それはこんな台詞です。

「アンタたちはみんなカミサマを頭に乗せて生きているさ。アンタたち、みんな、ひとりひとりがカミサマで、ひとりひとりがとっても大切なお方。アンタたち、カミサマをきちんと喜ばしてるか?自分をきちんと喜ばしてるか?すぐそばにいらっしゃるカミサマを見もしないで、神も仏もあるものか。」
「バカみたいだけどよ、こんなにかして生きていかれるんだよ。こんなにかしないと生きられない。生きるためにはよ、あんなにもこんなにもしてよ。知らない人にはね、これはバカのおばあだなと思うかもしらないけれど、自分は生きるためにはよ、バカにもパーにもならんと生きられない。」


ああ、やっぱりもう一度あの映画の中のおばあに会いたくなってしまいました…。
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by cita_cita | 2006-10-18 23:56 | 読書

SAVVY10月号

e0066369_23495359.jpg私が愛読している関西エリアの情報誌、SAVVY。特に旅情報は結構ツボをついているので、かなりの確率で購入しているのですが、最新号の特集は「私たち、きれいになるために通ってます」。

ヨガやピラティスをはじめ、体を動かすおけいこごとからエステ特集まで。その中の「はじめてヨガに通うならこの20軒」という記事の中で、私の通うヨガスタジオTAMISAと、私の大好きなYUKA先生が大きく写真入りで紹介されています。YUKA先生はレッスン以外でのやさしい雰囲気も、そしてそれに似合わないレッスン時のパワフルさもホントに私の憧れです。もう一人のYOKO先生も2人揃って同じく美人で女らしくスタイル抜群!しかもヨガのレッスンの分かりやすさもピカイチとくればTAMISAの生徒さんはこの2人の先生に憧れて習っている人が多いのも納得できます。

そして、私がアヌサラのコースを一緒に受けた心斎橋スタジオヨギーのTOMOKO先生も紹介されていました。TOMOKO先生もスタイル抜群で美人で、めちゃくちゃ体が柔らかくて、ホント私と同じ人間とは思えない!なんでヨガの先生はあんなに素敵な人が多いのでしょう…。

ヨガ以外にも、ピラティス、フラダンス、フラメンコ、カポィエラ、加圧トレーニング、バレエなど元気でキレイを目指す人のための情報がぎっしりだし、さらに自然派のアロマティック系化粧品など、私の愛用してるジュリークやイソップ、マークス&ウェブも紹介されていてかなりボリュームのある内容でした。

多分発売されたばかりなので、今なら関西圏の本屋さんでは簡単に手に入ると思います。気になる方は、本屋さんへ急いで!
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by cita_cita | 2006-09-06 00:01 | 読書

「チャルカの東欧雑貨買いつけ旅日記」 CHARKA

e0066369_13543333.jpg大阪の堀江にチャルカという店があります。主に東欧の文房具や雑貨を扱うお店です。 しかもこんなツアーまで!

「東欧を旅する雑貨店」というキャッチコピーのチャルカ。まだ東欧や中欧への旅や雑貨が一般的ではなかったころからコツコツその魅力を伝え、ついにはあの「流行通信」の東欧特集を監修するほど。じわりじわりと定着してきたプチ東欧ブームの波を作ったお店です。経営者のお二人が旅友達の女性2人というのもすごく親近感がもてます。以下は、チャルカのウェブサイトに掲載されているお店の紹介文を転載させてもらいました。

 チャルカは1999年大阪生まれ。1994年、英会話教室で出会った久保よしみと藤山なおみは、旅ともだちになりました。古いビルの屋上のプレハブをシェアしつつ、たまにふたりでぶらっと旅に出るのが好きでした。どこを旅しても、買ってしまうのはノートとか封筒とか鉄のバケツとか、重くてかさばる日用品ばかり。空港でエキストラチャージ請求に冷や汗かきつつ(今もかわらないけど…)持ち帰った雑貨たちをフリーマーケットに並べては、"お店やさんごっこ"を楽しんでいました。そして1999年の春の日、ついに実行に移そうと決心したのです。それまで、しょっちゅう話していた「いつかお店をやりないね」というコトバを。旅先の列車の中で話した「旅が仕事になるといいのにね」というコトバを。  あれから6年の月日が流れました。いつもいつもやりたいことがいっぱいありました。やると決めたら、後先かまわず強引。まわりの人を巻き込んで、ずいぶん助けてもらいながら、あっというまの日々でした。フリマ好きの延長で、本気で遊ぶ感覚。そんな"お店やさんごっこ"のようなスタートでしたが、いつの間にかチャルカにどんどんのめり込んでいったのです。東欧への旅は、もう生活の一部。東欧の雑貨も、人も、文化も、もっと紹介していきたい。だから、これからもゴロンゴロンと転がり続けていこうと思っています(転がり続ける『ローリング、チャルカ(車輪)』はわたしたちのテーマ。お店のマークが車輪なのはそういうわけなのです)。

ほら、これ読んだだけで、お店に行ってみたくなりませんか? 「好き」を仕事にするって、きっと楽しいことばかりではないけれど、夢ですよね。この本は、そんなチャルカのお二人が買いつけのために東欧を何度も訪れた記録と、そこで出会った人や雑貨の数々をスクラップブックのように楽しく紹介した本です。ガイドブックとして使うには、少し内容が雑貨に偏っているのですが、もしも「雑貨を巡る旅」とテーマを決めて東欧を旅するなら、この本は心強い必需品になると思います。蚤の市の情報や、掘り出し物の見つけ方、買った雑貨を日本に送るときのパッキングや発送手順など、お店をやっている人がここまで公開しても大丈夫なのかな?って思うほど懇切丁寧に紹介されています。でも、それもきっと「商売第一」というのではなく、大好きなものをできるだけ多くの人に知ってもらいたいという気持ちがあるからこそなのでしょうね。難しい注文や購入ルートのないような雑貨を買い付けに行くまでの果敢、かつ粘り強いアプローチや、小さな小さな町工場との取引が始まって、それが長いお付き合いになっていく、そういう流れの中に何人もの人との出会いや交流があることがこの本を読むとよく伝わってきます。お店で扱っている多くの雑貨のうちどの商品ひとつとっても、それぞれの品物にまつわるエピソードがあるのだなと感動しました。

旅好きの私ですが、正直言って、東欧・中欧は今まで優先順位はそれほど高くはありませんでした。今から初めて行くならば、それよりも中南米やネパール、チベット、モロッコなどに興味があったからです。でもこの本を読んだらムクムクと東欧への興味が湧いてきました。遠い世界だと思っていたけれど、なんだかすぐにでも行けそうな気がしてきました。ベルリン→プラハ(チェコ)→ハンガリー(ブタペスト)をめぐる電車の旅、もしかしたら来年あたり私もその電車に乗っているかもしれません…。
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by cita_cita | 2006-09-02 00:36 | 読書

「おやすみ、こわい夢を見ないように」 角田光代

e0066369_1533114.jpg角田さんの本って、たまにドキッとするぐらい自分の心の奥の弱い部分をえぐってくるような「痛い」表現が出てくるのだけど、この作品は角田さんのそういうブラックな部分が前面に出た…というかその部分だけで書いたような短編集です。好き嫌いは大きく分かれると思う。直木賞受賞後に角田さんを知った人が最初にこれを読むと、彼女の作品を嫌いになるかも。それぐらいブラック色に徹した作品で、最近の彼女の作品ではここまでのはなかったと思う。作者自身も「後味の悪い作品です」と語っている通りに。

作品の紹介コピーは「あなたの気持ちをざわざわとさせる、衝撃的な7つのドラマ」ということなのですが、本当にざわざわします。タイトルを見るとかわいい癒し系の本みたいなのに、これ読んだら逆にこわい夢見ちゃいますよ。でもいわゆる正統派ホラーではないんです。というか、怖い生き物とか壮絶な場面とかはひとつも出てこないのに、なぜか精神的ホラーっぽい。例えば徹底的に残忍なシーンが展開したり、破滅的な最後に向かっていくような小説だったらまだマシだと思う。だけど、この本に含まれる7つの作品、どれをとっても一見普通に毎日が流れていくんです。でも登場人物の心の中に救いようのない憎悪というか悪意がいつも沈殿していて、それが外に出よう出ようとする。いつバクハツしても不思議はない危うい綱渡り。でも、それがバクハツすることはなく、表面上は何も無かったように毎日が流れていく。その状態がいつまでも続く、逃げ場のない閉塞感の方が怖いって思うことないですか?

これを読んでいて、最近再読した角田さんの別の作品「あしたはうんと遠くへ行こう」を読んで同じような場面があったのを思い出しました。主人公の父親は、派手で遊び好きの母親と一緒になるときに「一生お金のことで苦労させない」的な約束をしたとかで、2人で場末の温泉町に駆け落ちして来て以来、朝は新聞配達、昼は温泉旅館の掃除、夜は居酒屋、土日はクリーニング屋と働きづめの人生。そんな姿を見て主人公は「母に出会わなければ、この世の中にそんな生活が存在しているなんて父は想像していただろうか」とその生活をまだやめようとしない父を嫌悪する。そんな人生まっぴらだと、主人公は温泉町を飛び出し、色んな男と付き合い、色んな仕事をし、色んな町に住むけれど、その閉塞感からは抜けられず、それでも「ここではないどこか」を目指してさまよい続ける…。「おやすみ、こわい夢を見ないように」に出てくる抜けられない閉塞感の中でモヤモヤ(モヤモヤなんて可愛いものではなく、ドロドロした悪意)を抱えながら息を潜めている登場人物たちと、「あしたはうんと遠くへ行こう」でその閉塞感から抜け出すために同じ失敗を繰り返し続ける主人公と、全く違うように見えて、本質的に同じ種類の人間ではないかと感じました。違う場所に移動しても、結局逃れることはできず同じところをグルグル回っているだけに見えるのです。まるでお釈迦様の手の中でグルグル回っていた孫悟空のように・・・。

でもやっぱり「あしたはうんと遠くへ行こう」を読んだときよりこっちの本の方がこわかった…。「あしたはうんと…」を読むと、結構凹んだり落ち込んだり、もしくは主人公のダメさ加減(全く学習能力ないし)にイライラ腹が立ったりするのだけど、ここまでゾーッとすることはなかった。 何事もなく平和な毎日で、このまま日々が流れていくことの幸せ、その裏で実は色んな人のものすごい複雑な悪意とか憎しみが煮詰まっているかもしれない、それが空想の世界ではなく実際にきっと自分の周りでも起こっているのだと考えると本当に恐ろしくなります。私は、基本的に人は話せば分かりあえるもので、人生はすばらしいものだっていう考えを持っているけれど、実はそれは私の幻想、都合のいい思い込みなのではと考えさせられました。私だって嫌いな人や苦手な人はいるし、過去には「あいつなんかいなくなっちゃえ!」って思うぐらい嫌だと思った相手もいます。 だけどそう思うのは一時的なことで、自分が学校を卒業したり引越ししたらその気持ちは薄れていくものだと思っていました。でも、たまたまその時はそれで済んだけどそのネガティブな気持ちがもっと大きくなって胸の中でどんどん育っていくことだってありえるのだと思うと、それを抱えたまま私はどう生きていけばいいのだろう…この世の中は悪意に満ちていて、自分も悪意を抱えていて、それをバクハツさせる地雷を踏まないように注意深く生きていかなければならないとしたら…。

7つの作品の中では表題作の「おやすみ、こわい夢を見ないように」と「私たちの逃亡」が特に印象に残りました。ここではそれぞれ自分の嫌いな相手に対して敵意むきだしの男子高校生と女子高校生が脇役として出てきます。でも、その敵意の対象となった相手には、(詳しくは描かれていないので想像ですが)そこまで強く憎まれるほどの落ち度はなかったように見えます。それでも誰かに「めちゃくちゃにしてやる」「死ねばいい」と思えるほどの悪意を持たれてしまう、その怖さ。憎まれる側の態度や気持ちではなく、憎む側の心がその憎しみを育て、日々増幅させているとしたら・・・。これって、エイリアンの話や日本沈没の話よりよっぽどリアルでよっぽど恐ろしいと思いませんか?
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by cita_cita | 2006-08-24 00:05 | 読書

「イルカ」 よしもとばなな

e0066369_13225570.jpg「冬の終わりに、悪性のインフルエンザにかかった。そこから全てが始まったし、それがなかったら何もなかったと私は思う。あんなにいやなことで、たまらなくて、ないようがいいようなことだったのに、それが全ての大切なポイントだった。それこそが人生の妙なのだなという気がする。」
冒頭、この文章から物語は始まります。まったく、よしもとばななという人はどうして人の心をゆさぶるような文章をこんなに上手に表現できるのだろう。この数行だけで、読者を物語の世界に引っ張り込むことができるなんて。

この物語は、数年前に30代後半で妊娠・出産したばななさんが、その経験をテーマに書き上げたものです。自身の体験がもとになっているだけあって、かなりリアルで、出産を経験した人でなければ分からないであろういろんな心の動きや研ぎ澄まされた感覚がたくさん表現されています。私には未知の世界だけれど、きっと出産した人にとってはまた感じるものが色々あるのだと思います。

私にとっても、たくさん心に響いてくる言葉がありました。ちょっと長くなりますがどれも素晴らしいことばばかりで、ここまで削るのが精一杯でした。

「ごり押しして手に入れたら、その分のひずみがどこかにかかってくる。厳密に残酷にそれはやってくる。」
「もういるものを、いないことにすることだけは、絶対にできないのだ。絶対に、絶対にだ。」

最初、彼女が好きになった男性は長く一緒にいる女性がいます。この2つの文章はそれに関して登場するものです。ここではその女性から無理に彼を奪うことについて書かれていますが、この言葉自体は普遍的にいろんな場面に言えることではないでしょうか。とても心に残る一文でした。

「私はそのとき、インフルエンザの疲れや五郎のことや父の高齢やなにかを心の奥底でいっぺんに感じていたのだろう。タイミングよく感じていたのだ、きっと。いつもさまよい続けてひとところにいなかった私、それをなによりも好きだった私はそのとき生まれて初めて思ったのだ。『もういやだ、こんな淋しいことは。私の席がある場所から離れるのはもういやだ』というふうに。」
次第に、これまでずっと(精神的に)風来坊のような生活を続けてきた彼女の心に少し変化が生じます。そのときの気持ちがこれ。こう思うときって、やっぱり自分の周りでも内部でも何かが起ころうとしているときなのかな。

「不思議なことに、私の半分はここを出るのが面倒くさいと思っていた。家までの遠い道のりを運転していく体力がないような感じなのだ。そして私のもう半分は猛烈にここにいるのをいやがっていた。そしていやがることからも逃避しようとしていた。渦中にいるとき人は奇妙に鷹揚になるものだが、まさにそれだった。」
この、最後の文章。「渦中にいるとき人は奇妙に鷹揚になる」本当にそうだと思う。ある程度まではジタバタするけど、それを通り越した状況になると、起こっていることをどこか遠くから見ているというか、今しなくてもいいことをしてみたりとか…これを現実逃避といってしまえばそれまでだけど、私にとっては現実逃避は意識的にするものであって、こういう状況で鷹揚になるのとはちょっと違うと思うな・

「『人生の場面が急に変わるのが好きなの。極端なら極端なほど、嬉しいの。』私は言った。『アラスカに行って、翌々日はハワイとかそういうようなこと?』マミちゃんは言った。『そうそう、それで”さっきのは夢だったのかな?”と思うのが好きなの。』私は笑った。」
この感覚、すごく分かります。私が色んなことに興味をもって手を出すのも、世界中を旅したいのもそうかもしれない。ヨガに夢中になったのも、シャバアーサナをして朦朧としている時の「さっきまで動き回っていたのは、あれは本当に自分だったのかな。今ここでぼんやり体を投げ出している自分と同じ存在なのかな」と思う感覚にひかれたのかもしれない。

「相手が自分を好きで好きで仕方ない場合でなかったら、どんなに気に入っている人でも寝てはいけないと思う。自分の体が気の毒だ。毎日意味もなく血液を心臓からどんどん送り出して、毒は肝臓や腎臓でなんとか処理し、胃の中のものを消化しては腸を動かしている、体の随所でうまく体が動くようにやってくれているこびとたち...ってそんなものはいないのはわかっているけれど、便宜上そういうものたちがいるとして、その人たちに悪いではないかと思うのだ。」
今、ヨガをするようになって、自分の体に対して自分で責任をもつということについて真剣に考えるようになって、この一節がびっくりするほどスルスルと心の中に入ってきました。書かれていることは本当に当たり前のことなんだけど、でもそれができない人っていっぱいいる。でも周りが何を言っても、どうにもならない。これって本人が心と体でそう思わないと意味のないことなんだ…。

「まだそんなにお腹が出てきてないのでなんとなく不思議だった。歩いているときの意識もすでに違ってきていた。ひとりで歩いているというよりは、いつでもゆで卵(生卵よりももう少し安心っていう感じだったのだ)を大事に持って歩いている感じだった。そしてあれこれ他のことが考えられないように、脳が買ってに調整されている。全く人間はよくできていると思った。このことだけに集中し、そのためだけに生きろと指令が天から下っている感じだった。」

「(水族館で)全てが青っぽい内装の中で、重いお腹を抱えながら、心がうつろになっていくのを感じた。もはや体が全く言うことをきかないので、ふっと気づくといつでもぼうっとしているのだった。これこそが妊婦の世界だろう。生理で貧血のときと少し似ている。別の世界が自分のわきにぱっくりと口を開けていて、いつでもそこをのぞきこめてしまう、そういう感じだった。別の世界は暗くて、風がごうごう吹いていて、恐ろしい数の無意識の闇とつながっている宇宙空間のような世界だった。それがなんとなく心をうつろにさせるのだった。」

「終わりのないトンネル、見えない頂上への登山、そういうものにとてもよく似た痛さだった。そして私は時間と人生の関係をその痛さの中で悟った。ほんの少しでも先のことを考えると、痛さに耐えられなくなるし、エネルギーが奪われるのである。痛くない時間は痛くないことに安らぎ、痛い時間には痛くない時間を待たないこと、今のことだけしか考えないように集中する。それが全てだった。インフルエンザのときも似たことを感じたのだが、今回はもっとせっぱつまっていたので、ますますそう分かった。先のことを考えても無駄だ、というのはまるでひとつの考え方や哲学のようだが、実はもっと具体的なことなのだと思い知った。」

このあたりの文章は、もう女性の神秘というか、母親になるということの偉大さを見せ付けられたようで、ただため息です。みんなこういう風に思うのだろうか。だとすると、こんな気持ちを経験できるのはまさに女性に生まれた特権ですね。体も気持ちも思い通りにならないなんて、しんどいし怖いに違いない、でもその感覚を体で知っていることと知らないことは、その人の価値観を全く変えてしまうようなすごいできごとなんでしょうね。改めて、私の身の回りの「おかあさん」達を偉大だと思わずにいられません…

「ふと振り返ると、五郎のミニが店の前に停まっているのが見えた。五郎は車から出てドアのところに立っていた。その姿を見たとき、この人はうまくすればずっと縁がある人なんだな、と私は思い、今、いっしょにここにいることを嬉しく思った。きれいに磨かれたガラス越しに、コートを着た彼の姿と白い息が見えて、とてもいい光景だった。店の中はいい匂いがいっぱいでさらにちょうどいい温度で暖かく、お腹の中で赤ちゃんはすくすく育っている。私の手にはおいしいパンがいっぱいやってくる。これが人類の幸福のひとつだと、思わずにはいられなかった。風や光が体の中を通っていくような瞬間だった。」
この文章は、この本の中で私が一番好きな部分です。「幸せ」を文字で表せと言われても、私にはこれ以上の文章はなかなか書けないと思う…。

「明日はどうなるか分からない。誰がどう変わるかわからない。私もあの寺にいた人たちみたいに自分を立て直さなくてはならなくなるかもしれない。命も、誰のものがいつまでここにあるかわからない。今手で触れる人も、もう会えないかもしれない。でも今は、全てがここに調和している。私はここにいる。それは一瞬のことで、また次の瞬間には別のことが起きる。ぎゅっとつかんで持っていることはできない。朝の光がどんなにすてきでも、いつまでも朝でいてくれるわけではない。だからこそ、私は思い出を集めているのだ。もう持ちきれなくて忘れてしまって私の細胞のひとつひとつをそれらが形作るまでにたくさん。」

「あの崖のところから、またもこんなに遠くに来ている。早くてもう追いつけない、誰かこれを記録しておいて、と言いたくなった。でもこの瞬間の連なりは私だけに立体的に記録されるものすごいデータなのだ。体にも細胞にも脳にもハートにも刻まれる恐ろしい量の思い出は、私が死んだらこの世からなくなる。厳密には誰とも共有していない。私は私の、妹は妹の、父は父の、五郎は五郎の、アカネちゃんはアカネちゃんの、全然違うそれぞれの世界がわずかに重なり合っているだけで、膨大なそれぞれの思い出宇宙が日々どんどん膨張していく。ただそれだけでもう、自分が生きていることのすごさを思わずにはいられない。」

「(生と死と)そのふたつは一見悲しみと喜びのように見えるが、実はさほど変わらないものなのだと私は感じていた。あの陣痛の暗黒の、永遠の痛みの中をさまよって、そう思ったのだ。あんなに死の匂いの近くに行ったことはない。つまり赤ちゃんもそのときは同じく暗い世界にいたのだろう。生まれるとやっぱり嬉しいからすぐ忘れてしまうだけで、いつかまたその逆の道をきっちりと通って、人はあちら側の世界にまた戻っていく。生きている間は喜びのほうが好きと思いたい、それが人間のくせだというだけで、同じことなのだ。きっと。久しぶりに出た外はなんでもきれいに見えた。遠い空も、道行く人も、ぴかぴかに磨かれた車たちさえも。ここで、この世界で私はまだしばらくは生きていくのだろうと思った。願わくば、この肉体がこの世にいるあいだ、なるべく多くの愛をいろいろなものに注げますように、そう思った。」

この3つの文章は、どこか別のところにしっかり書き残しておこうと思っています。そしてこれから何度も何度も読み返すと思います。ヨガを始めてから考えるようになったことと深くリンクしているからです。宗教めいているようですが、私にとってはそうではありません。どの宗教を信じるとか、どんな儀式をするとか、それとは関係のない次元のことだからです。私は30代で健康で、両親は60代で幸い今のところ2人とも健在で、でも全てはいつまでもそのままではなく毎日変化していきます。今の自分には、ここまでの内容を自力で考えることも、頭の中で生み出すこともできないけれど、いつか自分なりの考え方が生まれてくるのかもしれません。自分にとって、何が一番大切なのか、何を守り、何を切り捨てていけばいいのか…今の私には壮大すぎるテーマだから、私がおばあちゃんになって何も考えられなくなるまで時間をかけながら付き合っていこう、そう思います。
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by cita_cita | 2006-08-11 01:44 | 読書

「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。」 角田光代

e0066369_23293928.jpgこの人はホントに多作な作家だ。
ちょっと本屋に行くのをサボると、すぐに新刊が出ていてびっくりする。きっと、頭の中にどんどん書きたいことが浮かんで、しかも書くのも速いのだろうな。(もし違ってて、血を吐くような思いで書かれているとしたら、角田さんすみません) 次から次へと新刊が出るのは、興味のない作家だったらどうでもいいのだけど、好きな作家だから素直にうれしい。

この本は2003年から2005年にかけて、角田さんがブルームブックスという出版社のウェブサイト上で連載していたコラムをまとめたもので、コラムだけあって読みやすく軽いノリの話題がテンポよく展開される。そういうささいな話を読んでいても、やはりこの人の視点とかセンスって好きだなーと思う。

「褒め男に遭遇したことある?」のコラム。褒めるのがものすごくうまい男、というのがときたまいて、下心も全然なくただ褒めるのがうまいという。でも相手に自分は特別だと錯覚させてしまうほど褒めるのがうまいというのが問題。本人はなんとも思っていないのに褒められた女のほうが知らず知らずその言葉にとらわれてしまう。たとえば「お前って本当にうまそうに飯食うなあ。見てるとこっちまで飯がうまくなるよ。」といわれたさっちゃんは、その言葉でぽーっとなってしまい「ものすごい勢いで食べる女」と化してしまった。彼には全然その気はなく振られた後15年が経過しても彼女はいまだに食べキャラから抜けられないらしい。そういう角田さんも「角田は若いのにキレイにタバコを吸うなあ。品があるよ」と上司に言われ、「煙草キャラ」がむくむく成長して本数が一気に跳ね上がったとか...。

「プチトラウマはありますか?」では、親に虐待を受けたとか激しいいじめにあったとかそんな大きなものではなく馬鹿馬鹿しいようなトラウマのことが書かれている。角田さんのプチトラウマは「ごはんが残ってカレールーがなくなる」というもので、これは一度レストランでルーが少なすぎたためにご飯がたっぷり残ってしまい福神漬けも付いておらず、ごはんを残して空腹のまま店を出たことが原因らしい。それ以来外でカレーを食べるたびビビンパのようにルーとごはんをぐちゃぐちゃに混ぜて食べるクセがついたらしい。それから長距離移動のときのトイレ。トイレのついていないバスで2回「もうだめだ」と思ったことが原因で「長い時間バスに乗るときはちょっとどこかおかしいと自分でも思うぐらい何回も何回も、出なくてもトイレに行く」というプチトラウマ。そして街で目の前を通り過ぎたかっこいい女の人がスカートのすそをストッキングに突っ込んで「尻丸出し」で歩いていたのを見てから生まれた「スカートの後ろがパンツに挟まってるのでは!」と思うプチトラウマ...。あなたのプチトラウマってありますか?

「部屋話と恋人話、関係あると思わない?」は、世の中には自分の恋人をやたらと褒めちぎる人と、やたらとけなしまくる人と、いると思いませんか?という問いで始まる。角田さんの分析によれば、住んでいる部屋話と恋人話は比例する。引越しした友達に今度の家はどんなとこ?と聞いたとき、利点のみを説明する人と欠点をまず伝える人とぱっきり分かれるのだそう。「前のとこに比べて広くなったし、夜はすっごく静かで、隣が公園だから緑がいっぱい」という家に行くと駅から20分だったりする。でもこういう人は恋人のことも褒めちぎる。逆に「隣のうちのもの音がする、家賃が前より一万高い、トイレの壁紙が気に入らない」という人は同じく恋人のこともまずけなす。だけど行ってみると実際の住まいもなかなかいい物件だったりするのだ。その経験から、友達と話していて「で、一体この子の恋人の実態はいかに?」と思ったとき、角田さんは部屋のことを聞いてみたりして、彼女の話す男性像から少々天引きしたりプラスを上乗せしたりするらしい。

とかなんとか、こんな感じの軽~いノリの話がいっぱい詰まってて一気に読めてしまいます。電車とかで細切れの時間に読むのにお勧めの本です。でもやっぱり、角田さんのセンス、いいよなあー。身近に居たら絶対友達になりたい...。

ちなみに私のプチトラウマは、角田さんと一緒で「トイレに行きたいときいけなかったらどうしよう」と「今、私チャックが開いてるんじゃないか」というトラウマです。前者は、お花見や花火大会や野外コンサートで、ビールを思い切り飲みたいのについセーブしてしまい、飲みたい気持ちとトイレの恐怖のせめぎ合いでいつも葛藤しています。人が大勢集まる場所に行くと、まずするのはトイレの場所の確認、これ常識。一方後者の方は、実際にしょっちゅうチャックが開いてることがあるので…。いつも無意識にチャックのあたりを触ってちゃんと上まで締まってるかどうかさりげなく確認するクセがついてしまってる私です。
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by cita_cita | 2006-08-09 23:29 | 読書

「愛する言葉」 岡本太郎・岡本敏子

e0066369_2324228.jpg岡本太郎と、彼の生涯のパートナーであった敏子さんの愛に関する言葉がちりばめられた本です。
太郎さんの言葉は青い字で、敏子さんの言葉は赤い字で綴られています。分量でいうと敏子さんの言葉が多いのですが、(おそらく、太郎さんが亡くなってから、敏子さんが表舞台で発言する機会が多くなったからでしょうか)それでもまるで二人が会話をしているように感じられる部分もあります。

「つらぬく」、「はぐぐむ」、「ひきあう」、「かさなる」、「ぶつかる」の5つのテーマごとにふたりの心の底から出てきた強い強い言葉がいっぱい載っています。こんなドラマチックな2人なので、やっぱりいつも精一杯の、ぎりぎりの中を生きていたんだなあと、ただただため息をつくような表現も...。

やはり私は同性である敏子さんの言葉の方にハッと感じることが多かったです。
たとえばこんな言葉ですね。
-やれることだけを一生懸命やるの。「私はやれるだけのことをやっている」って思ったら、そんなにヒステリックになることもないと思うわ。
-女の人がよくないと思うのは、男の子がなにかをがんばって失敗したとき、「ほらごらんなさい。あのとき言ったじゃないの」って、すごく情熱的になるところ。思い当たるでしょう?マイナスのときだけ情熱的になるのは女の子の卑しさなのよ。
-なにが起こるかわからない。一刻一刻展開する。生きるって、そういうことでしょう。


でも、太郎さんの言葉にもたまにドキッとするものが...。
-情欲に流されるのはいい。だけど、流されているという自覚をもつんだ。
-人間というのは生まれつきのかたちで、生きているのがいちばん美しいんだ。
-男性だけの世界観はほんとうのものじゃない。女性だけの世界観もほんとうのものとはいえない。この男と女の世界観がぶつかり合って、そこで初めてほんとうの世界観が生まれるんだ。


あとがきで、敏子さんのおいである平野暁臣さんの言葉があるのですが、これを読むと彼がこの本をまとめた思いが伝わってきます。「多くの人が太郎と敏子の関係は常人と違う異端のものだと考えている。ふたりの生き方に憧れるけれど、自分にはとてもできないと諦めている。でもそんなことはない。ふたりの言葉を噛みしめれば、それがわかる。」
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by cita_cita | 2006-07-31 23:24 | 読書

「名馬風の王」 マーゲライト・ヘンリー (絶版)

e0066369_1271737.jpgこの本をずっと探していました。
宮本輝著「優駿」の中で、この本が重要なキーワードとして登場します。最初に優駿を読んだときから、いつか読んでみたいと思っていましたが、最近分かったのは、以前は講談社の子供向けシリーズ「青い鳥文庫」から出版されていたものの、現在では絶版になっており入手困難とのこと。でも、どうしても読みたくて、図書館に問い合わせて蔵書を調べ、やっと念願かなって読むことができました。

「優駿」の中では、この作品は主人公である博正が、彼の牧場で生まれたオラシオン(最初の名前はクロ)のサラブレッドとしての血統を説明する場面で、博正が子供の頃父親に与えられて何度となく読み返した本として登場します。オラシオンの血統はアラビア馬ゴドルフィンというルーツを持ち、そのゴドルフィンについて1940年代に書かれた小説がこの「名馬風の王」なのです。

昔モロッコにアグバという口のきけない少年がいて、王様の馬屋で馬の世話をしていた。そこに一匹の子馬が生まれ、出産とともに母馬が死んでしまったのでアグバは子馬をシャムと名づけて親代わりになって熱心に世話をした。あるとき王様がフランスの国王に贈り物として、国中で一番立派な馬ばかり6頭を選んでプレゼントすることにした。その中にシャムが選ばれ、アグバもその世話役として船に乗ってフランスに旅立った。ところが船上の長旅と度重なる嵐のせいで、フランスに到着したときには立派だったはずの馬は骨と皮だけになってやせ衰え、これに気を悪くしたフランス国王は全ての馬を追い返そうとした。モロッコに帰ることもできず、シャムは王宮の料理番の買出し用の荷馬車を引く馬として、それ以外の5頭は軍隊用として散り散りになってしまった。

ところが料理長はシャムがアグバの言うことしか聞かないのを見て、何とか言うことを聞かせようと無理強いをしたので結局振り落とされて恥をかく羽目になり、この馬を売り飛ばしてしまった。シャムはあらくれものの材木運びの親方に引き取られてこきつかわれ、弱りきって倒れかけたところを通りがかりのイギリス人に買い取られ、彼の養子へのプレゼントとしてイギリスに行くことになり、アグバもシャムとともにイギリスに渡る。その家では、彼や家政婦に大変可愛がられたけれど、養子がシャムをうまく扱えず、怖がってあの馬を追い出して欲しいと言ったものだから、家族は不本意ながら信頼できる知人のもとにシャムとアグバを託すことにする。その知人はいい男だったものの、神経質な妻がものを言わないアグバを気味悪がり、アグバだけが追い出されてしまう。アグバはシャムに会いたい一心で夜中の馬小屋に忍び込むが、これが妻に見つかってしまい、馬泥棒のぬれぎぬを着せられて牢屋にいれられてしまう。

そんなこととは知らない前の家の家政婦がごちそうを持ってアグバに会いに行って、初めて牢屋に入れられたことを知り呆然と立っているところに通りがかった馬車に乗っていたのが公爵未亡人とその養子のゴドルフィン伯爵。家政婦の話を聞いて不憫に思い、一緒に牢屋に連れて行ってアグバに面会し、ことのいきさつを聞いてアグバを牢屋から出し、その足でシャムを買い受けに向かう。晴れて伯爵の屋敷で暮らせることになったのもつかの間、伯爵が一番大切にしているホブゴブリンという馬のお嫁さん候補としてやってきたロクサーヌというメス馬と、あろうことかシャムが交わってしまう。怒り狂った伯爵はシャムとアグバを屋敷から追い出し、アグバたちはじめじめした沼のほとりで孤独な日々を過ごす。

ところがある日屋敷から迎えがやってくる。シャムとロクサーヌの子馬は2歳馬になり、ある日囲いから飛び出して走りだし、調教を受けている最中だった他のどの馬よりも早く駆け抜けた。これを見た伯爵は、自分がとんでもない間違いをしたと気づき、「これはまったく新しい血筋だ。アグバのあの馬のほかにこういう血筋の馬はないはず。ただちに連れ戻せ」と命令したのだった。そしてシャムとアグバは屋敷に戻り、シャムは伯爵と同じゴドルフィンという名前をもらい、シャムとロクサーヌの子馬たちは次々とレースの記録を塗りかえ続けた。シャムの孫、エクリプスはイギリスの誇りと言われたほどで、エクリプス系という系統の始祖となった。シャムは長生きして29歳で死んだが、アグバはシャムの一生を通じて世話をし続け、シャムが死んだ翌日にモロッコに帰っていった。

とまあ、こんなストーリーです。優駿を読めば、これと同じ程度のあらすじは大体分かるのですが(博正が語ってくれる場面があるので)やはり原書(正確に言うと原書の和訳)を読むと感じるものがたくさんありました。子供向けの本なので、分かりやすい表現でかいてあって、1日で読めてしまいましたが、一番最後の数行を読んだとき、読んでよかったと心から思いました。とっておきの終わり方なので、ここにはあえて書きませんが(ごめんなさい)、でも子供だけが読むにはもったいない小説でした。これ、絶版になったのは本当に惜しいです。同じように思う人も多いようで、「復刊ドットコム」というサイトでも多くの人が復刊希望のコメントを書いていました。そのコメントにやはり「優駿を読んで興味をもった」という人が多かったのが印象的でした。
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by cita_cita | 2006-07-28 23:29 | 読書

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by cita_cita | 2006-07-25 22:34 | 読書