「父親たちの星条旗」

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「硫黄島からの手紙」を見に行ったら、同じ映画館で同じ時間にこちらもやっていました。
今週末までで終了とのことで、まだ間に合うと思っていなかったので、これ幸いと路線変更。結果的には見ておいてよかったと思います。

私の印象では硫黄島での戦闘シーンが50%、戦争から帰還してからのシーンが40%、そしてストーリーのつながりを担う現代のシーンが10%という感じです。ピュリッツァー賞を獲得した有名な「硫黄島の星条旗」の写真の裏に隠された、その写真をとりまく人たちの話です。

この映画に関しては、多くの人にぜひ実際に映画を見てもらいたいという気持ちが強いのでストーリーはあまり説明しないことにします。確かに残酷なシーンもあります。爆風で体の一部が吹き飛ぶような場面も映っています。でも、この映画で見せたかった一番大切なことはそれだけではないはずです。残酷なシーンは、それが必要だったから存在するのだと思いました。実際の戦闘場面で描かれる戦争の悲惨な現実と、そこから離れてもなおフラッシュバックする記憶、そして忘れられない友人達の最期の姿。その時は隣り合わせに恐怖に耐えていたはずなのに、自分は今ここで英雄として立派な待遇を受け、友は二度と還ることがない、この差は一体どこから来るのか...何かが一つ違えば、ここにいるのは自分ではなかったはずなのに。英雄扱いされればされるほど、行き場をなくして酒に逃げ道を求める者もいます。全てを割り切ってこれから先の人生に目を向ける者もいます。そしてただ沈黙を守り続ける者も。

映画が始まって、米軍が硫黄島に攻め込む最初のシーンを見たとき、驚いたのは、自分がカメラの向かっている目線で映画を見られないことでした。そこまでずっと追いかけてきたはずの主人公や仲間の米兵達の目線をカメラは追っているはずなのに、私は攻められる側の、カメラの向こう側の気持ちでしか見られなかったのです。これまで戦争映画と呼ばれる作品をいくつも見てきましたがこんなことは初めてでした。硫黄島のおかれた状況や、上陸の様子が沖縄の座間味や伊江島とオーバーラップしてしまって、どうしてもそういう見方しかできなったのです。映画を見ているだけだというのに、そのときは本当に背筋がぞっとするような感覚でした。

でも、見続けていくうちにどちらの側でもなくなっている自分に気づきました。米兵に対する敵意も感じないけれど、かといって日本兵を敵だとも感じないのです。これまでの戦争映画は、どちらかが善でどちらかが悪だという描かれ方のものがほとんどでしたが、イーストウッド監督は意図的にそれを避けたようです。だから、米兵の心の触れ合いのようなシーンが描かれたかと思うと、次の場面では残虐に日本兵に火炎放射器を放ったりします。日本兵に関しては不気味なまでにその姿は見えません。私は、この映画を通してイーストウッド監督に「で、君はどちらが悪いと思うのか?」と質問されているような気がしました。起こった現実はただひとつ、でも悪いのはどちらかだなんて、単純に決められるような問題ではないのです。でも、戦争がこれだけ人の心と体をぼろぼろにして、戦争が終わってからもいつまでも傷を残し続けるということ、そこまでして得るものにどれだけの意味があるのか。「戦争反対」なんてセリフ、この映画にはひとことも出てこない。それどころか「英雄」たちは「戦争のために国債を買ってください、私達を応援してください」と叫びながらアメリカ中を旅し続けることを余儀なくされる。それでもこの映画にはしっかり「反戦」というメッセージが刻みこまれています。

ストーリーや脚本もよかったと思いますが、小さなエピソードや場面ひとつひとつがとても効果的に使われていました。祝福の花火の閃光と爆音によって、最前線での自分にひきずりもどされたり、真っ白なババロアにたっぷりとかけられた真っ赤なストロベリーソースを見て思わず無言になった彼らが何を思ったのか、解説などなくても全員に伝わったでしょう。そしてインディアン出身のアイラの正義感ゆえの苦悩と差別という現実、彼の送った人生は戦争というテーマとはまた別の、世の中が抱える悲しい問題を私達に突きつけてきます。

この映画以上に評判が高いという「硫黄島からの手紙」、ますます見るのが楽しみになりました。
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by cita_cita | 2006-12-15 00:20 | 映画
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