「優駿」 宮本輝

e0066369_14385472.jpg久しぶりにこの本を手にとって読んでみて、改めてこの物語の、そして宮本輝という語り部の奥深さに驚嘆しています。初めてこの作品を読んだあと、こんな素晴らしい傑作と出会えた感激が冷めやらないうちに競馬場に行き、サラブレッドをこの目で実際に見てみたくてたまらなくなったことを鮮明に覚えています。 結局、縁がなくて競馬場行きはまだ実現していないのですが…。先週京都競馬場でディープインパクトの国内ラストランがあったときにも行きそびれてしまい、その時に「優駿」のことを思い出してまた読んでみました。

宮本輝の作品の素晴らしさは、その臨場感と登場人物ひとりひとりの人物描写の素晴らしさだと思います。作家と読者との相性ってあると思うのですが、私にとっては本当に相性のいい作家さんだと勝手に思っています。宮本輝の作品を読んでいると、いつもその登場人物の背格好、顔かたち、住んでいる町の様子、家の間取りなどが、くっきりとカラーで頭の中に浮かんでくるのです。まるで映画作品が頭の中で作り上げられるように、小説を読み進めるうちに見たこともない登場人物の顔や声、口調までクリアにイメージできます。そんな小説家は私にとって他に存在しないかも。それほど宮本作品の登場人物はリアルに生き生きと描かれています。この優駿が書かれた1980年代の作品については特にそのように感じます。そう、この作品が最初に出版されたのは1986年で、今から20年前。でも今読んでも全く色あせません。確かに出てくるセリフや町の様子など、多少時代を感じさせるものはありますが、そんなことはほとんど気にならないほどのめりこむことができます。 今、この2006年に年間何本の小説が世に出るのでしょう。そしてその中で、20年後に読んでも同じように人を楽しませることのできる作品がいくつあるのでしょうか。

この作品は、オラシオン(スペイン語で「祈り」)と名づけられた一頭のサラブレッドと、その馬をとりまく人々の人間模様を描いた物語です。そこには牧場でサラブレッドの生産に関わる人々、それを所有する馬主、栗東トレーニングセンターで厩舎で馬の世話を担当する厩務員、調教師、旗手がいて、実業家である馬主には秘書や家族がおり、競馬場に集まる一般客、特別席に入ることを許された限られた人々、スポーツ新聞の記者など様々な人が登場します。そしてそのそれぞれの登場人物が個々の人生、夢、思いを抱えてドラマが描かれます。これはもはや単なる競馬小説などではない、本当に上質な人間ドラマです。

まず最初にオラシオンがこの世に生を受ける場面、そこで牧場の息子である渡海博正がオラシオンに引き継がれるサラブレッドの血、その長く深く壮大なドラマを語るところでいきなりグイグイとひきつけられます。そこからはもう読むのをやめることが難しいほど。そして読者は、読んでいる最中に色んな登場人物の目で物語を見守ることになります。オラシオンを誰よりも愛し、我が息子のように、宝物のように思っている博正、サラブレッドの馬主として、会社経営者として恵まれた人生を歩んできたように見える和具平八郎の内に秘めた苦悩、日本のサラブレッド王としてその名を世界にはせる吉永ファームの人々や帯広の小さな牧場で細々と馬を生産する藤川老人の馬を見るたしかな目、そして長い下積みの末にやっとチャンスをつかんだジョッキー奈良五郎の目から見た旗手同士の熾烈な駆け引きの世界。それぞれの全く異なる人物の目線で物語を見ることができるのです。そのひとつひとつのエピソードが本当に丁寧に描かれているので、登場人物ひとりずつに関する小説がかけるのではないかと思えるほど。 例えば、奈良が出走直前にゲートに入るために馬に乗り観客の待つ場所に出た瞬間の外の真っ白なまぶしさ、そこから見るスタンドの霞(実際にはタバコの煙)の中にいるように見える観客の様子を描写した場面があるのですが、実際に競馬場を知らない私にも実にリアルにその場面が浮かんできます。

読んでいる最中に、自分が知らないところにこんな本があったのだ、今それを読んでいるのだ、そしてまだこの後も少なくとも小説が終わるまで読むことができるのだという喜びでいっぱいになります。出会えてよかった、そう思えるほどの作品は今までに数えられるほどですが、この優駿は私にとって紛れも無くそのうちのひとつです。小説を読むこと、すばらしい作品と出会うことの楽しさを教えてくれた本です。競馬が好きな人はもちろん、今まで興味の無かった人にもぜひ読んでもらいたい。 この本と出会えばきっと、これから競馬を、サラブレッドを見る目が全く変わってしまうことでしょう。

ところで作中で「皐月賞は調子の良い馬が勝つ、ダービーは運の良い馬が勝つ、菊花賞は強い馬が勝つ」ということばが出てきます。これは競馬ファンの中ではよく知られていることなのでしょうか?
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by cita_cita | 2006-07-03 22:01 | 読書
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