「沖縄文化論 ~忘れられた日本~」 岡本太郎

e0066369_2263765.jpgこんな骨太の本を読んだのは、久しぶりのような気がします。いやあ、面白かった!ちょうど先日、岡本太郎の生涯のパートナーであった岡本敏子さんとよしもとばななの対談本「恋愛について、話しました」を読んで敏子さんの感覚を非常に面白いと思っていたので、こんな女性が夢中になった岡本太郎の本も読まないとなーと、興味が持てそうな本を図書館で見つけて借りてきました。でも読み終わった今は、この本を手元に置いておきたくて、自分でも購入しようと思っています。

岡本太郎といえば、私にとっては「芸術は爆発だ!」であり、「太陽の塔」であり、「自分の中に毒を持て!(私の妹が高校生の時持っていた彼の著作。今思うとわが妹ながらすごい…)」など、エキセントリックでちょっとイッてしまった人(失礼!)というイメージがありましたが、「沖縄文化論」を読んでひっくり返りました。まさに目からウロコとはこの事。昔、彼がまだ健在だったころに出演していたテレビCMを見たことがあって、画面の中で喋っていた時のイメージで岡本太郎という人を捉えていたのです。そのイメージそのままのぶっ飛んだ文章を想像しながら読み始めたのですが…これほどの厚みのある内容を誰が読んでも分かるような文章でしかもユーモアも交えつつ、時には怒りや驚きなどの感情を表しながら、でも自分の言いたいことを完璧に伝えきってしまうなんて…(ため息)。この人の頭の中は一体どうなってるのかと驚きでいっぱいです。こんなすごい文章を書く才能と、世界を驚かせるような芸術作品を生み出す才能を併せ持つ人がいるとは。1ページ1ページに、ハッとするような考察が、彼独自の視点で展開されていて、でもどれもひどく説得力のあることばかりなのです。この作品が発表された当時、あの三島由紀夫や川端康成が「これこそが文学だ」と絶賛したそうです。

この作品は太郎が1949年に米軍占領下にあった終戦後の沖縄を訪れた経験を元に、1年かけて書き上げたものです。その頃の那覇の市場や、石垣島、竹富島、久高島の写真も掲載されていますが、石垣島の白保の集落の様子や混沌とした市場の写真など、今とのあまりの違いに驚かされる写真が多いものの、逆に竹富島の町並みの写真などは今の姿を彷彿とさせるものもあってこれもまた不思議な驚きです。

この作品を通して読むと、岡本太郎がいかに「自分のものさし」というものをしっかり持っていたかがよく分かります。庶民の酒である泡盛を飲むのはみっともないと、沖縄の人でさえこぞってビールを好んで飲んでいた時代に一人泡盛を探して盛り場を歩き回り、結局見つけられずに「あんなウマい酒を飲まないなんてみんなどうなっているんだ!」と憤慨する。(泡盛ブームの今では信じられないですが、そういう時代があったのですねぇ…)沖縄民謡を聴かせてもらい、三線の音色が邪魔だと感じて「三線は抜きで歌だけ歌ってもらえないか」と注文し、唱者を戸惑わせる。琉球舞踊の媚びのない潔さに感動し、日本舞踊は不要な飾りだらけで、芸術からただのお座敷芸に成り下がってしまったとバッサリ切り捨ててしまう。沖縄の聖域である御嶽(うたき)のあまりの何も無さ、飾りのなさに感動し、原始こうであったはずの神社は年月を経て装飾過多になり儀礼祭礼の形式にとらわれて本来の姿を見失ってしまったと嘆く。彼が優れていると思うもの、美しいと思うものについての持論は、いつも私たち常人には思いもしない方向から展開されていくので、読んでいると「えっ!?」と呆気にとられることが何度もあるのですが、その内容の面白さと文章の力強さにグイグイ引き込まれていきます。

南部戦跡に行ってまず最初に太郎が感じた感情は怒りでした。
内地ではとかくアメリカの軍政下にある島民生活の悲惨さがクローズアップされる。私も自由と民族的プライドを奪われている彼らの顔がどんなに暗いか、そういうアクチュアリティ(実情)をも観察しなければと思っていたが、しかしこの戦跡を見ていると、はるかに日本人が日本人に対しておかした傲慢無比、愚劣、卑怯、あくどさに対する憤りで、やりきれない。

でも、次に石垣を訪れた彼は「何もないこと」にひどく魅力を感じ始めます。
しかし、琉球列島のどん尻まで来て、いよいよ何もないということを見きわめたとたんに、私の心は一つ大きく跳躍した。かなり以前から、私はこれを確かめる瞬間を待っていたのかもしれない。~中略~(石垣、ハダシ、着のみ着のままの服装、頭にのせるクバ笠)これら全ては美しい。意識された美、美のための美では勿論ない。生活の必要からのギリギリのライン。つまりそれ以上でもなければ以下でもない必然の中で、繰りかえし繰りかえされ、浮び出たものである。

八重山の歌についても詳しく書かれています。そして普通の人は、初めてきけばまず三線の方に耳を奪われるであろう、唄三線を聞いてこう思うのです。
人間の声はすばらしい。~中略~ところが三線の伴奏の、あの装飾性は何だろう。それは快楽であり、媚びであり、官能主義ではないか。~中略~何よりもまずいのは、人間の声が逆に楽器によって規制されてくることだ。楽器に合わせて安易に繰りかえす。三味線音楽の工工四(くんくんし)にしても、またドレミファの十二音階にしても、譜面に書かれて、歌がオタマジャクシを追いかけて行くようになると、叫びの本質、生命の感動は浮いて、甘くならされてしまう。装飾的メロディーになってしまうのだ。

琉球舞踊を見たときにはこんな感想を述べています。この視点は本当にすごいとしかいいようがありません。
たえず鮮やかに空間を切りひらき、なめらかに変転する。~中略~キマることがない。だからこそ鮮やかに、リズミックで、空間的なのだ。日本舞踊など、のべつキマッてばかりいる。いつでも正面に向かっての装飾的効果だ。動きで空間を構成するというよりも、紙芝居のように、絵画的イメージを連続させて行くという感じ。

この本はこんな調子で、最初から最後までどのページを開いても、はずれがないというか、おいしいというか、とにかくすごく読み応えある内容で、次々展開される岡本太郎ワールドに「もうおなかいっぱい」と何度も思ってしまいます(笑) でもまたすぐに次のページを開いて読んでしまう...きっと私、彼の文章がクセになってしまったんですね。多分近いうちに彼の著作を他にも読むと思います。

最後には「神々の島 久高島」というタイトルで、1966年、最初の来訪から7年後に本島東南に浮かぶ久高島で、12年に一度行われる神事「イザイホー」を見た経験がレポートされています。このイザイホー、1978年に行われたのが最後で、1990年、2002年は行われませんでした。イザイホーは島の女性が神霊を受け継ぐための儀式なのですが、久高島に生まれ育った30歳~42歳の女性でなくては神女になることはできません。島の人口の減少と高齢化のために、もう新しく神女になる資格を持つ女性は一人もいなくなってしまったのです。このイザイホーの記述は非常に興味深く、1978年の最後のイザイホーを記録したビデオがあるそうでそれを見たいなと思っています。幸い、万博公園の国立民族博物館(私の大好きな場所です!)にあるみたいなのでこの熱が冷めないうちに行ってみようかなと思っています...。本を読むと、こうやって自分の興味がどんどん枝葉に広がっていくのがうれしくもあり、大変でもあり...(笑)でもこれが読書の醍醐味ですよね。
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by cita_cita | 2006-03-18 02:50 | 沖縄
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