クリスマス in 八重山 その5

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由布島を出たのは午後4時。まだ少し時間があります。宿のおかあさんが勧めてくれた「野生動物保護センター」に立ち寄るとちょうど4時で閉館した後でした。ここはまた次回ということにして、今から他に行ける場所は…と探して見つけたのが、南風見田(はえみた)の浜。西表島の東部海岸をずっと南に下った行き止まりにある浜です。ガイドブックにはあまり大きく取り上げられていないのですが、以前「離島情報」という本で、西表島の住民に聞いたお気に入りの場所の中でこの場所の名前を挙げている人がたくさんいました。今来た道をずっとまっすぐ引き返し、宿を通り越してまだまだバイクを走らせます。宿の前を過ぎてから約15分、ここで「勿忘石(わすれないし)」という看板を見つけて、バイクを停め、浜に出ました。

e0066369_0271952.jpg浜を左の方に3分ほど歩いて行くと変わった形の平らな岩が集まった場所があります。 ここに、立派な石碑が海の方を向いて立っています。後から調べて分かったのですが、勿忘石は、この石碑の下の岩に直接文字が刻まれたものを指すのでした。この石には「勿忘石 ハテルマ シキナ」という文字が刻まれていますが、私が行ったときにはそれに気付かず、その文字をまねたレプリカが前の石碑に書かれたものを見ていました。 シキナというのは波照間国民学校の校長であり、この文字を刻んだ識名という方の名前です。戦争中、沖縄戦が激化する中で波照間の島民全員が西表島のこの地域に軍命で強制疎開させられたそうです。その頃、南風見田は既にマラリアが蔓延していて、疎開した波照間島民は次々にマラリアに感染し、戦争が終わって波照間に帰島してからも食料や薬の不足と衛生状態の悪さから発症が続き、結局波照間全島民の3分の1(488名)が無くなったそうです。一家全滅した家も少なくなかったそうで、識名校長の教え子やその家族の中にも多数の死者が出たため、野外学校の入学式をした場所であるこの岩の上に識名校長は「この悲しみを忘れてはいけない」と文字を刻んだのだそうです。新しい石碑には、波照間に戻ることのできないままここで死んでいった人たちの名前が集落ごとに刻まれています。疎開した島民の中にはマラリアの汚染が少ない由布島に移動した人もいたそうですが、ほとんどはこの南風見田に疎開しました。その理由には、天気のいい日にはここから波照間が遠くに見えるということもあったのかもしれません。

e0066369_0273865.jpg私が行ったときも、よく晴れた真っ青な空の向こう、水平線上に波照間島の影がぼんやりと浮かんでいました。ついさっきその波照間島から難なくチケットを買い、船に乗って自分がやってきたことを思うと、たまたまここに立ち寄ったことが偶然ではないような気がしてきました。マラリアってどんなに苦しいのだろうか、この岩の上で、帰れない人たちはどんな気持ちで毎日自分のふるさとを眺めていたのだろうと思うと、自分が沖縄を好きだというわりにあまりにも知らないことが多すぎるのだなと、しばらく考え込んでしまいました。でもこの場所を知ることができてよかった。帰ったら、今から60年前、波照間や沖縄の人たちに何が起こったのか、もう少し勉強してみようと思って浜を後にしました。

e0066369_029318.jpg勿忘石の看板を過ぎて、1kmほど行くとキャンプ場の敷地に入り、道は終点に到達します。ここからまた南風見田の浜に出てみました。ここも昔はマラリア患者が出たそうですが、今では静かな誰もいない浜です。ここからも遠くに波照間が見えます。海は本当に静かで穏やかで、夕方になって夕日を見るためにぽつぽつと人が集まり始めるまでは私と犬を散歩させているおじさんの2人だけでした。地元の人たちが、ここが好きだというのも納得できるような気がしました。夕日で浜がオレンジ色になった頃を見計らって、バイクで宿に戻りました。6時半には予約していた「はてるま」に行かなければいけません。さて、「はてるま」ではどんな晩御飯が待っているのでしょう。

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勿忘石のある岩盤。本物の文字は石碑の下の岩盤に刻まれています。
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by cita_cita | 2006-01-06 00:19 | 沖縄
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