震災の記憶と「神戸新聞の7日間」

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実は、震災当時、私は1年間の留学中で地震そのものを経験していないのです。関西に住む人間として、当然誰もが持っているはずの震災というものに対するリアルな感覚が抜け落ちているような気がしてずっと気になっていました。

そんな私がこのドラマに対してコメントしてもいいものか、少し迷ったのですが、やはり私なりに感じたことを書きとめておきたいと思います。

あの震災の日。壊滅的になった神戸の町でライフラインを断たれ、自分たちの身に何が起こったのか、これからどうなっていくのかも分からず恐怖と途方にくれる人々。その被災者に情報を届けるのが地元新聞社である自分たちに与えられた使命だと信じ、全壊し機能を失った本社を目の前にしても、なんとしても新聞を発行し続けようと奔走した神戸新聞の記者たち。自分たちも被災しながら取材を続けた彼らの努力と苦悩という視点を通して震災を描いた作品でした。

実話が元になっていますので、記者や編集長ご本人の談話や当時の写真などをまじえた構成になっていて、ドラマというよりドキュメンタリーのような感じで見ていました。

つぶれた家に家族が下敷きになっている状況で、ようやく見つけた消防隊に懇願しても「すみません、応答のある人から先に助けます。」と言われる側と、言わなければいけない側の辛さ。消防車から水が出ず、目の前で燃え広がっていく火事を何もできず見守るしかできない消防士と住民の無力感、跡形も無くなった家の焼け跡で、母親を探していると言って骨を拾い集める少年に出会い、「神戸新聞です。写真を撮らせてください。」とシャッターを切りながら「すみません。すみません。」と涙を流す新聞記者の葛藤。

辛い場面が幾度も幾度も出てきて、胸が詰まりました。実際に震災を体験した人であれば私とは比べ物にならない様々な思いを持って見ておられたと思います。

ご自身もお父様をなくされた中で書かれた社説「被災者になってわかったこと」が紹介される場面では涙がとまりませんでした。神戸新聞のサイトで社説の全文が紹介されていますのでこちらを読んでみてください。

主人公のカメラマン役をやっていたのが嵐の櫻井翔クンで、最初はなんで?せっかくなんだからもっと他の俳優使えばいいのにやっぱり視聴率重視なのかな…とうがった見方をしてしまいましたが、後になってみればこれもよかったのかなと思います。あれから15年経って、今の中高生の多くは教科書の中の歴史のひとコマとして阪神大震災を知るのだそうです。私たちの世代にとって見ればほんの15年前のことだけれど、感覚的には私たちが教科書で原爆について習ったのと同じように実感のない出来事なのかもしれません。そんな世代の子供たちが、櫻井クンをきっかけとしてこのドラマを見ることになったとしたら、そして彼ら、彼女らなりの感想をもったとしたら…大人の世代ばかりでこのドラマを見て、震災の記憶に思いを馳せること以上にすごく意味があることだったと思います。

それは私も同様。冒頭にも書いたとおり、私は震災を経験していません。その日、私はアメリカのシアトル近郊で地元のアウトドア用品メーカーでインターン(学生の見習い実習)として仕事をさせてもらっていました。震災の瞬間、確か現地では昼頃だったと思います。同僚が「ついさっき日本で地震があったんだって」と私に伝えてくれました。日本のどこか訪ねると、「名前は忘れたけど、東京から300マイルぐらいの場所だって」との回答。それを聞いたとき、私が言った一言は「ああ、東北ね。その辺、地震が多いんだよね」というものでした。その頃、仙台あたりで地震がよく起こっていた記憶もあり、東京から300マイルと言われて、それが関西かもしれないという発想は私の頭の中に1%さえもなかったのです。

しかも私の大きな間違いはもう一つありました。「日本で地震があった」と言われて、私の頭の中に浮かんだのはTV番組の途中に頻繁に入る地震速報の画面。「○○市 震度3、××市 震度2」というもの。その時も、てっきり日本のどこかで毎日のように起こってる規模の地震だと決め付けてしまったのです。でもはるか遠く離れた海外にいて、その場所にリアルタイムで飛び込んでくる海の向こうの地震速報を聞いて、それがどういう意味をもつのか、どれだけ大きな規模の地震なのか、その時に気付くべきだったのです。

でもアホな私は何も考えずデスクに戻り、そのまま仕事を続けました。夕方になって、ステイ先の家に帰るとその時付き合っていた人から国際電話がありました。日本時間で正午頃だったと思います。「神戸で大きな地震があった!」「え?それって神戸やったん?大きい地震なん?」「もうメチャクチャや。高速道路が倒れて、人が何百人も死んで…。大阪は被害は少ないけど、考えられないぐらい揺れた。京都も同じやと思うから、とりあえず実家に電話したほうがいい。」一気に血の気が引いて、慌てて実家の母に電話をかけたら、つながりました。やはり京都の被害は少なく、揺れはすごかった(震度5)けれど被害は、神棚の上のものと、本棚の本が落ちてきただけで済んだと聞き、電話を切りました。

そのころ、インターネットなんて無かったので(WINDOWS95の時代)、情報の収集もままならず、ニュース番組を見ても情報は断片的で、本当に知りたい部分はつかめず…(ちょうど今、ハイチの地震について日本で報道されているような感じで、いつ、そのニュースをやるかも分からない状態でTVを見ていました)毎日本当にやきもきしてすごしたことを覚えています。1週間たち、NEWSWEEKやTIMEに大々的に載せられた被災地の写真を見て、まるで映画を見ているような気持ちで現実を受け入れるのが難しかったことも今でも思い出されます。しかも、その後ほどなくして、地下鉄サリン事件が起こったため、アメリカに入ってくる日本の話題はサリン一色になってしまいました…。

同じ世代の関西人が震災について話をしているとき、この15年、自分は同じ目線で語る資格がないのではないかという負い目が、なんとなくありました。でも、神戸新聞のドラマを見たことで、震災についての報道もいつも以上に色んなことを考えながら見ていました。そんなとき、昔からの友人2人がMixiで書いていたやりとりが目に留まりました。2人とも、それぞれの震災の記憶について書いていました。

ドラマの中で、水が出ず消火活動ができず立ち往生する消防士の場面がありました。私の友達もそれと全く同じ光景に遭遇して呆然としたそうです。川の水も無くて、消防士さんが「ごめんね」と泣きながら火事現場で謝っていたそうです。また、もう一人の友達は、死亡者リストの中に友人の名前を見つけ、驚いて彼女の実家に確認したところ本人であることが分かったそうです。その友達の実家は豊岡(兵庫県の北部)だったので、ご家族が遺体を引き取りにきて、道路の状態もひどく、渋滞も尋常ではなかったためバイクの後ろに背負って実家まで連れて帰ったそうです。とにかく、あのときは携帯もない時代だったので安否確認が自由にできなかったのが本当に大変だったと2人とも言っていました。ちなみに彼女の家には毎日新聞が地震翌日にもちゃんと届いたそうです。TVも写らず、電話も通じにくい状況で、新聞が届いてどれだけほっとしたでしょうか。あのドラマを見た後ではよけいにそう思います。

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そのやりとりを見ていて、ふと、三宮で行われていた震災のつどいに初めて行って見ようと思いました。何も知らないから行きにくいと思っていたけれど、何も知らないからこそ行ったほうがいいのではないかと思って。ろうそくに火を点して、記帳をし、お花をささげてお祈りさせてもらいました。公営住宅の家賃減免など支援制度の打ち切りに悩む人達の声を読んだり、長田の消防署の人達が撮影した数多くの資料写真も見ました。その写真を見ながら当時のことを話しているまわりの人達のほとんどが神戸の人で、震災経験者で、その会話の内容を聞いているだけでも何度も胸が詰まりました。やっぱり、思いつきであっても行ってみてよかったと思います。

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震災発生の瞬間から復興が進むまでの道のりを詳細(特に17日当日は分刻みで)に記載してあるボード。

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ろうそくをうけとって、竹の中に火をともしてお祈りします。

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竹の数は犠牲者(6434名)の数と同じなのだそうです。
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by cita_cita | 2010-01-19 22:28 | その他
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